宇宙叡智の学校

ファッションモデル引退へ 24歳

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ファッションモデル
最後のワーク

リーナ・エダ24歳

私のモデル人生を振り返ってみる。
4歳で子供モデルとしてデビュー、
10歳の時、一大決意をして引退し、
15歳で再びファッションモデルとして再デビュー。
18歳から23歳で頂点ピークを達成した今、
その後の決断が迫られている。

どの業界だろうと頂点ピークの後は緩やかな下り坂へ向かう。
先端のランナーでいる時期は自ずと終わりを迎え、
次なる若手へと仕事は引き継がれていくのだ。

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婦人画報 婦人画報社
ファッションモデル 23歳

ファッションモデルとして
様々な業界の広告に貢献してきた。
女性向けのファッション雑誌は、
ほぼやりきった感があった。
まだ23歳という若さではあるが、
広告業界として若くないのだ。

この先も続けるのなら、
ミセスの世界へ突入することになるのだ。
婦人画報はファッションモデルとして
最後の1年を飾るワークとなった。
婦人画報の創作メンバーは素敵な人たちだった。
婦人画報社のスタッフの方は特に素敵な女性で、
私の中にある潜在的な要素を見出し、ページを構成した。
最後の仕事に相応しい印象を残した作品たちが生まれた。

この二つの作品は、
自立した精神と内に秘めた強さ、
そして華やかさと内に秘めた優しさが描かれている。
その他にも印象深い作品はあったが、これが一番好きだ。

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当時の私にとって、
同級生たちが描く結婚への願望はなく、

このまま家庭を持ち、落ち着く気分になれない。
まだまだ元気の良い若者として、
やりたいことが山ほどあると感じていた。
やっと家庭から自立して大人の仲間入りをしたのに、

また家庭に入るなんて地獄にしか思えなかった。

その内なる声に耳を傾け、
潔く、モデルを引退することに決めた。

しばらくは契約が残る仕事をこなしていたが、

すでに我が魂は遥かなる彼方へと翼を広げ、
新たな旅への準備を始めていた。

⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️

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馬里邑(マリムラ)
婦人服ブランド

リーナ・エダ21歳

モデル時代を少し前に戻るが、
子供モデル時代に親子でお世話になった
女流写真家の今井寿恵先生と再会を果たした。
田園調布にあるファッションメーカー
“馬里邑”の広告全般の仕事でのことである。

今井先生が私をモデルとして指名してくださり、
この時から数年間に渡り、
一緒に軽井沢ロケにてモデル撮影に取り組んだ。

大自然と馬をこよなく愛する今井先生は、
すでにファッション業界からは身を引き、
大自然の中で
美しい馬サラブレッドを撮り続けていた。

そんな近況を聞く私は、
今井先生が引き受けたこの仕事は、
通常の広告とは
どこか違うものになるだろうと予感がした。

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“馬里邑”が描きたい世界は、
決して流行を追いかけるものではなく、
大自然の中に佇みながら樹々や花々を愛し、
いつまでも少女の心を持った可憐な女性像である。
“馬里邑”というブランド名に馬が入っているのと、
大自然を愛する今井先生の内に眠る
乙女心が刺激されたに違いない。

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今井先生の撮影はいつも決まって朝が早い。
夜明けや夕暮れの薄っすらした光や斜光を求める。
そこに人智を超えた神秘なるものを感じるのだろう。

そうした光や空気感を求めるが故に、
夜中の2時か3時に私は叩き起こされ、

母と一緒に待ち合わせ場所に向かうことになる。
私は嫌で嫌で、よく知恵熱を出して訴えたものだ。
しかし、厳格な母にとっては仕事が優先であり、
知恵熱などは精神の弱さと受け取られるだけである。
さあ、今日も自動車を走らせて撮影現場へ向かうのだ。

小さな子供にとって、正直、辛い仕事だった。
しかし、今思えば、そうした厳しさが、
気高き精神に生きる私を作ったのかもしれない。

この時の今井先生との再会は10年ぶりのことで、
すでに私は20歳になり、成人式を迎えた年である。
子供時代のモデル撮影とは違って、
この時の私には先生の愛する“光の魅力”がわかった。

確かに夜明け前や夕暮れ時は、
心が静まる瞑想的な時であり、静寂な音が漂う。

私はいつしか、朝靄の中で佇んだり、
月の光を愛でながら夜明けを待つことが好きになった。

都会育ちの私にとって、
こうした出来事の一つひとつが大きな意味を持ち、
私といういのちを育んできたに違いない。

今でこそわかる、“有り難み”なのである。
誰に手を合わせたら良いのやら、
今日も私のいのちは鼓動する。

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モデル撮影の多くは
軽井沢の別荘やその付近で行われた。

この写真に描かれた心象風景は、
まさに今井先生の乙女心そのものである。

“馬里邑”のカレンダーの表紙にも
選ばれることになったこの作品は、

軽井沢の別荘を借りて、早朝から撮影された。
この樹に宿る赤や紫の木の実は手作りで、
独特の世界観がそこに醸し出されている。
今井先生のハートの内奥には、
ファンタジックな世界が広がっているのだろう。

なんて素敵な乙女心かしら!

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“馬里邑”の作品群が、
ニューヨーク近代美術館に収められた写真だと、
今井寿恵先生が教えてくれた。
それらを特別の印画紙で焼いてくれた後、
さりげなくサイン入りで私にくださった。

私にとってモデル時代の大切な宝物となった。

⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️

この後、モデルを24歳で引退し、
1985年春、画家の彼と私で制作会社を立ち上げ、
渋谷・松濤のアンティークな洋館にアトリエを構えた。
私たちが制作会社を設立するにあたり、
今井先生から沢山の実践的アドバイスを授かった。
偏屈な画家の彼と今井先生は大変気が合い、
様々な話題で話が弾んだものだ。

斬新さとセンスの鋭さが試される仕事がやって来た。

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私たちの制作会社の名称は“La commune”と綴り、

“ラ・コミューン”と発音する。
この音の響きにはパリ・コミューンを
彷彿させるものがある。
彼はコミュニスト的な考えを強く持ち、
資本主義に批判的だった。
かつてパリに集う芸術家たちがそうであったように、
フランスに起こった社会を変革する運動〜
パリ・コミューンの息吹そのものだ!
当時の私は政治的なこだわりがなかったので、
彼のアイディアをそのまま取り入れた。

⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️

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今井先生のご推薦を受けて、
最初に制作依頼が来た
男性ファッションブランドの広告写真である。
左側は上野駅の地下廊下で昔の佇まいが残っている。
右側は江ノ島の最先端の波打つ岩場である。

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男性雑誌“DANSEN”と“東京ファッション”の
右開き広告の仕事であり、
最初の撮影からハイレベルな鋭いセンスと
メッセージ性を求められた。
美男子というより、
ひとクセあり味のある
男性モデルを私は選んだ。
上段の2作品は白黒写真に
こだわりのあるカメラマンに依頼をした。
下段の2作品はカラーバージョンで、
デザインで遊んだ作品である。

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これを皮切りに様々なユニークな作品を生み出し、
我らがアトリエのデザインチームは腕を上げていった。
この時期、私の中で大きな転機が訪れた。
彼は読書家であり芸術家であり、思想家だった。
私は24歳で彼に出会うまで、
文学作品や話題の小説を読んだことが一度もなかった。
まったく興味がなく、読むという考えも浮かばなかった。
読んだものといえば、
学生時代の教科書と百科事典だけだ。
百科事典は大のお気に入りで、
色々なことを調べ、自分なりに研究し、
新しいことを発見するのが、何よりも楽しかった。
10歳で転校した新宿区立落合第4小学校の担任の先生が、
とても自由な発想を持つ人物で、物わかりの良い先生だった。
学校の勉強があまり好きではない子供たちを思ってのことか、
課外授業として、独学による“コツコツ帳”なるものを提案した。
この話に私は真っ先に飛びつき、始めることを先生に約束した。
1年間だったか2年間だったか忘れたが、長期間やり続けた。
夕飯を食べた後、テレビも見ずに取り組んだ。
百科事典をぱらぱらめくっては気になるテーマを探し、
そのテーマに沿って解説を読み、レポートとして仕上げるのだ。
学校の勉強より、ずっと面白く、かなり博識になった。
朝起きて学校に行くと最初に、
担任の先生に仕上げた“コツコツ帳”を自慢げに提出する。
決まって、真っ赤な大きい五重丸をくれるのだった。
すごく嬉しくて、自分を誇らしく思えた。
そんな時は決まって、心の中のつぶやきが聞こえた。
“私が将来付き合う理想の男性は、
生物のことから宇宙のことまで何でも知っている人が良い”
“私のどんな質問にも素早く答えてくれる人が良いな〜”と。
今でもはっきり覚えている。
と云うことで百科事典しか読まなかった私は、
多くを難しく語る彼からは無知極まりない存在だった。
ここから彼による知の扉を開くための特訓がスタートした。

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毎日欠かさず、勧められた文学作品を読むようにいわれ、
芸術作品に直に触れるよう、美術館に行くことを勧められた。
毎週末は、必ずマイナーな映画館で文学的な作品を観に行き、
その後はどう感じたか?どう思ったか?と問いかけられ、
監督の思いや原作者の意図などをディスカッションするのだ。
彼の友達も同じ趣向性を持つ者たちで、
私たちのアトリエは芸術家たちの溜まり場になった。
日本人だけでなく、世界中の人が訪ねて来ては随分と長居した。
当時、モデルの世界しか知らなかった私にとって、
すべてが新鮮で、心ときめく毎日だった。
それでも文学作品は読むと眠くなり、興味が湧かない。
困ったものだと、彼は呆れ顔で次なる提案をした。
鋭い感性を持つ詩人たちの作品である。

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彼らの作品は私の魂を揺さぶり、
詩の虜になった。
私の内側で様々なリズムを持って
言葉がダンスするのだ。
多くの詩人たちに感化された私は、
自らも詩を描き始めた。
詩を書くというより、
詩を描く方が私にとって適切な表現であった。
この時、私の心の扉は大きく開かれ、
次々と言葉が紡ぎ出されるのだった。

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そんなある日、ファッションブランドの
イメージデザインの制作依頼で、
私たちのアトリエにクライアントが訪ねて来た。
モデル撮影だけでなく、
詩を書ける人物を探しているとのこと。
彼はいきなり私を指差し、
“素晴らしい言葉を描きますよ”と。
“それではお願いします”と、
クライアントと約束してしまった。
さあ、大変だ。
私にその大役が務まるのだろうか?
詩を描き始めたものの
印刷になるのは恐ろしいものだ。
後で引き受けたことを後悔し、
惨めな思いになりたくない。
しかし、すでに約束はされ、
スケジュールも渡されているのだ。
まずは鎌倉の洋館を借りる手はずを整え、
次にイメージに合うモデルを選び、
撮影開始である。
私の心はままならぬまま、
撮影現場は彼と撮影隊に任せて、
ひたすら詩作にふけった。

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第1回目の提出日が来た。
詩文をクライアントに提出したところ、
全面的に却下され、路線が違うと叱咤激励された。
なるほど、フォッションメーカーの
イメージBOOKに掲載するので、
そのイメージ写真に1つひとつの
詩文が合っていないといけないのだ。
もう一度、最初からやり直しである。
すでにモデル撮影は終わっていたので、
イメージBOOKに採用する写真をプリントしてもらった。
鎌倉の洋館に佇む美しい女性の心に私の心を重ね、
彼女の想いをハートで受け止めながら詩を綴りはじめた。
次々と湧いてくる言葉を紡ぎ、
11編からなる詩文が完成した。

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第2回目の提出日が来た。
ハラハラドキドキ、
手に汗握り評価を待った。

クライアントは一言、
“素晴らしい!ブラボー”と云って、私を抱きしめた。
私はほっとして、胸を撫でおろした。

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私のペンネームは“Lina Danae”である。
数日前にクリムトの絵画展に行き、
彼の作品のDANAEを見た時、強烈な閃光を感じた。
DANAEが他人とは思えず、
私の中の何かを象徴していた。
その絵をじっと見つめていると涙が溢れ、
胸いっぱいになった。

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まるで絵画の中からDANAEが私に乗り移って来たように…。
数週間後、
それらはイメージBOOKとして印刷され、
東京を皮切りに全国のショップで配布され、
好評を得た。
この時から言葉の魅力に取り憑かれ、
言葉を愛するようになった。
今でも、そのイメージBOOKをそっと開いてみると、
私が綴った詩が旋律を奏で、
リズムを刻むのだった。

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内をみつめる時
すべては溶けて流れていく
内にかえる時
すべては喜びに溢れ輝いていく
光に包まれる
世俗の魔性にとらわれず
あるがままの私
何も言わない
何もなさない
すべてが そこにあるままそのまま
自然の神秘が答える
あるがままの私

⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️

private labelのイメージBOOKは、
11編の写真と詩文の組み合わせで構成されている。
その中で一番人気が高かった作品が上記のものだ。
彼女のヌーディーな姿が美しくて選ばれたのかもしれない

⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️

それから2年ほど、
渋谷・松濤の洋館でデザイン制作の仕事をした。
芸術家たちと戯れ、芸術家たちを支援サポートし、
夜になると彼らと一緒に麻布や六本木のクラブに出かけた。

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芸術や文化について熱く語り、
新しいアイディアやヒラメキを共有しながら、
気の合う仲間が、次々と増えていく毎日だった。
しかし、時の天使の悪戯なのか、
こうしたエキサイティングな時も終わりが近づいていた。
ある日、彼に頼まれて子猫を預かることになった。
不思議なことに、その子猫が我が家に来てから、
私の人生の流れが大きく変わり始めた。

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私は極度の猫アレルギーらしく、
幼少の頃の喘息が再発し、大変な思いをした。
毎日、喘息の薬を片手に、子猫の面倒を見ている内に、
少しずつ意識に変化が訪れ、
いつしか、新しい考えが芽生えはじめた。
すると、今まで魅力的に思えたものが色褪せて見えるのだった。
なぜ、そう見えるのかはよくわからないが、そうなのだ。

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理性を神聖化し、
知性を絶対視する生き方に限界を感じたのかもしれない。
彼らの芸術や思想に対する知的な会話に参加する前の私は、
本も読まず、
知性を高めるために何かを求めることもなかった。
でも知性を超えたものをキャッチするアンテナは持っていた。
彼らのお陰で芸術や文学に触れ、
自らの感性は高まり研ぎ澄まされたものの、
何か真に求めているものとは違うことに気づき始めた。
いつの頃からか、難しく語る彼らの会話に疲れるようになってきた。
私の波動の変化が、彼らの波長と合わなくなってしまったのだ。
私は宗教組織に属していないが、宗教性を大切にする人間である。
幼少からの様々な体験が、私に敬虔なる思いや存在を感じさせた。
知的探求者の彼らには、神は必要なく、宗教性は無視された。
フランスで起こったパリ・コミューンの動きも同じであり、
宗教は人間を堕落させるアヘン(麻薬)だと説かれた。
これは経験がない者の云う言葉であり、
言葉に尽くせない存在を身近に感じ体験するのなら、
一瞬にして、その思いは変わってしまうのだ。
思想や主義主張には限界がある。
資本主義も社会主義も共産主義もコインの表裏にすぎない。
すべては権力者たちの戯言であり、ここから真の平和は訪れない。
数々の革命は多くの若者たちの犠牲の上に成り立ち、
結局、どこにも理想的な社会を成立させることができなかった。
フランス革命の標語である「自由・平等・友愛」は、
その後も理想世界を物語る言葉として息づいているが、
一度として、この世界に確立されたことはないのだ。
私の愛したアルチュール・ランボオが、
これらの革命運動に無意味さと無益を感じたように、
自らの在り方を捨て、新天地へ旅立ったように、
私も旅立ちの時が来たように思えるのだった。

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独りの時間を多く持つようにした。
静かに目を閉じると意識の深淵から、
お気入りの洋館を手放し、彼との制作会社をたたみ、
次のステップへの準備を始めるよう
迫られていると感じた。
渋谷・松濤の洋館は、
一階が制作会社のアトリエで、
二階が私と母の住居だった。
すべてを手放して、
次のステップに行くことは、
愛する彼と別れ、
愛する母と別れて暮らすことだった。
モデル時代を終わらせ、
デザイン制作の時代を終わらせ、
次なる流れは私をどこへ運んでいくのだろうか?
この時は何も知る由もなく、ただ涙を堪えながら、
愛する人たちとの別れを決意するのだった。

⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️

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